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2020年3月27日金曜日

兵士たちの戦争 4

NHK「戦争証言」プロジェクト 著

段々 戦争後半の内容になっているのでしょうか?
とても悲惨な内容ばかりになってきました。

中国大陸横断 反転作戦
福島県の歩兵暖が戦局が危ぶまれてきたので 
福島の白虎隊のように 強い歩兵である65連隊を行かせた。
強い部隊なので 厳しい所ばかり行かされた。
行く先に宿営地がないので 夏冬者などを含めて 装備は60kgほど。それを担いで標高1000m級の山々の道なき道を進軍していった。
途中馬が落ちてしまったりしても助けられなかった。細い道なので一列になってると 中国軍から撃たれてしまう。
進めと命令があれば 断れず 撃たれるとわかっていても進むしかなかった。
途中で 一か月ほど足止めをくらった。
インパールの再現になるというけど大佐が進めというので そのまま前進させられた。
みんな足が豆だらけだけど ついていくしかない。フラフラで意識朦朧だけどついていった。食料などは 底をついてしまい 中国人の人たちから略奪した。
1300KMも歩いたけど 計画が変更になり、戻る事になった。
他の部隊を掩護するために しんがりになった。
すぐ後ろから 中国軍が攻めてきていたのでとても怖かった。
上空にはアメリカの戦闘機。アメリカの武器を沢山得た中国軍はどんどん攻めてきた。
みんな 行軍に耐えられなくなって 自決していった。

沖縄県・鉄血勤皇隊
14歳から17歳、900名余りのうち400名以上が命を落とした。
沖縄にアメリカが上陸する 2日前に動員された。
動員されなかった子らはくやしがって直談判して徴兵となって喜んだ。
小銃を貸与されて嬉しかったが アメリカは自動小銃だったので 全く歯が立たなかったことを後で知る。
当初は伝令とか荷物運びが主な仕事だったが だんだん戦局が厳しくなって 壕に兵隊が逃げ込むのだが 先に入っている住民を追い出す作業もやらされた。
初めは勇ましく思っていたけど 追いやられていくうちに 生きられるのか死ぬのかだけを考えるようになった。
どんどん追いつめられ 隊が解散になった。どうしていいかわからなくなった。
投降しようとすると 同じ日本兵が後ろから撃ってくる。
終戦で捕虜になったけど 日本が負けたので銃殺されることがなくなったと思った、
敗戦を知らずに隠れていたところに 負けたと伝えてきてくれた人達がいたけど 敵のスパイかと思って信じなくて殺してしまった。後からこの人たちが本当の事を伝えてくれた事を知ってずっと後悔している。

インパール作戦 京都陸軍師団
2万人のうち1万5千人が亡くなった。多くくは20代の若者だった。
40キロ以上もの荷物なのですぐに立てず四つん這いになってから徐々に立ち上がり 最初は腰を曲げながら歩いた、2000-3000メートル級にの山を登った。
イギリス軍を撃退したら食料が沢山あって驚いた。勝つのでこのままいけば楽勝と思っていたけどそれが敵の策略だった。
戦いでは苦戦となり夜襲しかない。
一か月の予定だったので弾薬も底をつき 石を投げたりしていた。
敵の勢力の違いは明らかだった。
弾薬の補給や援軍を要請した 中将は解任された。
食料もなくなり 略奪をすることになる。
司令部は現地陣を死守せよというだけ。
どうにもならないので 軍の命令は聞かずに逃げることにしたけど けが人は置いていった。見殺しにしたという気持ちで一杯だった。赤十字の車がきたので見ていらたら火炎放射器で焼いていた。
撤退中は マラリア アメーバー赤痢に苦しめられ 雨季の豪雨に足を取られていった。
青竹の炭が効くと噂になって かじって治した。
ダメだと思って自決しようとしたけど 豪雨で手りゅう弾の信管が濡れたのか自決できなかった。途端に怖くなって 仲間を探して 助かった。
戦って死んだのではなく退路で亡くなったのが多いのがつらい。

ガダルカナル島 名古屋部隊
2500人の内300人だけ帰国できた。
撤退を決めたのは 戦って4か月後 そしてその後一か月も戦いが続けられた。
どこへ行くかは知らされなかったけど 戦えば勝てるだろうと楽観的に思っていた。
今回初めて上陸の時に激しい集中砲火に襲われた。
そして先に上陸していた部隊のぼろぼろの姿を見て厳しさを感じた。
前の本にも書かれてあったけど 日本は敵が大したことがないと思いこんでいたのがこの作戦の失敗であった。簡単に島を奪回できると思っていた。
兵士は武器の差も感じたし マイクを仕掛けられてるのもわかっていたが マイクがどんなのかもわからなかった。
殺されたくないから必死でやっつけた。鬼にならなきゃ。。。。
どんどん飢えで死んでいく。埋めたくても力がでない。
死守命令が出ていたので 亡くなった人の遺骨の収集もできなかった。持って帰れないから。
山の中で敵を見つけて撃って焼いて食べたけど 今でも悲しいというか 苦しいというか。。。ずっと誰にも言わないで苦しんでいた。
ある兵士は自分が死んだら 食べてくれと言った。蛆虫などに食べられるより仲間に食べてもらって 最後まで戦って欲しいと。
撤退命令が無線ではなく 人づてだったので 前線まで2週間もかかった。
撤退中も飢えで歩けなくなって 置いていかれる人もいた。
ただ餓死する人が大部分ということは、戦争をやっとるのか、何をやっとるのか・・・さっぱりわからんような状態で・・・・「長期にわたって愚かなことだ」と、本当に思いますね・・・

ベニヤボートの特攻兵器
初めて観た時に びっくりした。こんなものでという感じだった。
このボートでアメリカの船4隻沈んだが 命を失った隊員は2500人にものぼる。
すぐ壊れる船、消耗品、搭乗員も。
自分は死んでも 果たして日本は勝てるのか 疑問を感じていた。
飛行機乗りになるために訓練を受けていたのに最後はベニヤ板とは がっかりな気持ちだった。
脱出方法はあったが現実出来ではなかった。
荒れた海でエンジンが濡れて動かなくなった。
島で穴掘りしていたのでたまにはと海にでて訓練したら 狙われた。
当時周りの状況の情報が皆無だったのが原因のひとつでもあった。
最後には陸上戦となった。
今ね、思えば、震洋を発明した人が、自分の息子が乗るということだったらどうだろうなと。自分の息子が次は特攻隊員だったということになると、果たしてあんなものを発明してやね、日本の国民にやらせるだろうかなかあというような思いはありますね。
この上の作戦者ですね、参謀者っていうんですか、大本営ですか。そういう人は、なぜそんな考えのもとに戦ったかなぁと思って、そういう人を私、恨みますね。根本は、人間を鉄砲玉に使ったということに間違いがあった。

偽装病院船 広島県歩兵連隊
1500人が一度に捕虜になった。
広島の歩兵部隊は精鋭部隊だったので各地を移動した。
しかしシンガポールでは全滅に近い損害を受けた。
中国では抵抗運動をしていた者などを捕まえて殺した。どうにかしてあげたかったけど一兵卒の自分には何もできなかった。助ければ自分が殺される。
ケイ諸島に行った頃は食料が底をつき周りにあるものは何でも食べた。
マラリアや赤痢にも苦しめられた。
撃ってもこちらが一発撃ては連射で撃ちかえされるので撃たない方が良い。
船も飛行機も応援がこないので 手も足もでなかった。
やっと島から出られると来たのが病院船だったので これを使っていいのかと疑問があった。
船に乗ると 偽の名前でのカルテを渡された。船は定員の二倍、武器などは赤十字の箱に入れて しかし 本当の病症者は乗せてもらえなかった。
翌日アメリカの駆逐船が来た。無線傍受していたので 即 捕虜となった。
奥に入れられて このまま船を沈められて死ぬのだと思った。が捕虜収容所へ行かされた。捕虜になったら 日本に帰ったとしても 殺されるので 自殺したかったけど武器がないので自殺もできなかった。
収容所では どうにかして 戦うつもりだった。
が、広島の原爆の写真を見て驚いた。
開放されて帰宅したら 広島には 何もなかった・・・・

囮とされた空母瑞鶴
瑞鶴は多くの海戦に参加し大きな損害を受ける事なかった「幸運な空母」だった。
が終盤 レイテ沖で 囮となる事を命じられた。航空搭乗員は訓練を十分に受けてなかった若者たちだった。
あまりにも大きいので二か月乗っていても迷子になるほどだった。
開戦当時は腕の良い航空搭乗員がいた。
戦局が悪くなってくると 訓練をほとんどしない若い人が配属された。
ラバウルを守るために空母の飛行機などを下ろしてしまった。
アメリカの武器はどんどん進化していっているが それを知らない日本軍。
ラバウルで多くの兵を失う。
新しく導入されたロケット砲もどうみてもちゃちな代物だった。
航空機搭乗員は短い訓練だったので 実際に空母に乗って発艦 着艦で 事故が起きてしまった。発艦さえできれば 使う。
レイテには 可燃物は下ろせ 燃料も半分という事を知らされたので 覚悟していった。
しかし 全然見つけてもらえず、夕方になってやっと見つけてもらった。
130機もの航空機。戦闘開始から10分余りで魚雷が命中。船は動けなくなった。
船が沈んでみんなで一緒にいたけど 近くにきた駆逐艦に助けてもらったけど 上から攻撃を受けてるので 移動したりして 仲間を全員救えなかった。
囮をしたのに戦艦部隊は突入をしていなかった。
今思うと 何のためにやったのか 聞きたい。


読んでいると 日本軍の 自分たちは強いという驕りから
何も対処しないで 突っ込んでいったという 感がする。
どの 章も 読むと 憤りを感じてしまう。






2 件のコメント:

  1. とんでもない事実が、その多くは知らされていない・・確かに人権なんて無かった時代ですよね。
    それにしてもどの章もひどすぎる・・・

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    1. クロさん いつもコメントありがとうございます。
      そうなんですよ。ほとんど知る事のなかった事実です。
      多くの人が 鬼籍に入られたので 重い口を開けて くださってるようです。
      やはり 戦争は 普通の時と違って みんな 狂ってしまっていて でも生きて帰ってきたからと言って そのことを口に出すと そういう行為をした人を 許した自分もつらいし 亡くなっていた場合 そのご家族に迷惑がかかるとか 色々 あって 皆さん それぞれの 胸の内に 留めておいたようです。
      でも、本当にそれでよいのか?と思われて 後世に こんなことはもう二度とという 思いから 口を開いてくださいました。
      その 思いを私たちは 受け継いでいく必要がありますよね。

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