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2020年3月31日火曜日

兵士たちの戦争 6

NHK「戦争証言」プロジェクト 著

どの本を読んでも 兵士の方々が 大変な思いをしていたことが
書かれているので 心が痛みます。
いつか映像で見てみたいけど 文章読むだけでも
つらいのに表情を見ながらだと 本当につらくなるでしょうね。

人間爆弾 桜花
桜花で430人も戦死した。
特攻に志願をしたけれど 実際には 断りたい気持ちもあったけど
断れない雰囲気だった。
エンジンを持たない桜花は グライダーのようなもので
大型の飛行機に目的地付近まで持って行ってもらって最後に切り離され
ロケット噴射で突入。しかし ひとたび出てしまうと 状況が悪くなっても戻る事ができない。これはおかしいと 思って声をあげても 改良されることがなかった。
タイヤがないので 着陸ができない飛行機だった。
そしてこの桜花を運ぶ飛行機も大変だった。狙われたら最後。
沢山の爆薬を積んだ 桜花もろとも。。。
初回の出動の時は160人を超える搭乗員の命が失われた。
特攻の前に お寺に行ってお坊さんと話をして心を落ち着けた。
出発の時はもう何も考えられない。
行く方もつらいだろうけど 見送る(連れて行った飛行機の乗組員)方も 桜花を切り離す時はつらかった。
桜花のトラブルなどで 特攻行かずに生き残った人はすまないと思いながら 生きてきた。

ブーゲンビル島
ニューギニアの東の島で7万人のうち4万人が犠牲となった。
最前線に送り込まれ 援軍も補給もない中 二年も戦い続けて 全滅の危機にさらされたのでいったん後方に下がるものの 軍の上層部は 敢闘精神を欠くものと非難を浴びせた。再び最前線に送り込まれて 終戦まで戦い 9割の命が失われた。
初めて上陸したらジャングルで長い銃しか持たず戦いにくかった。
道を作れと言われて木を切ったりして作っても スコールが来てまたやり直しとなった。
こちらは10人も死んでるのに相手は一人しか死んでいなかった。
アメリカ軍のわずか六分の一の兵力だった。
一発撃つと100発帰ってくる。兵器が違う。
アメリカ軍が ブルドーザーなどで滑走路を作ってる姿をみたらかなわんと思った。
敵は飛行機もなんでもあるけど こちらは何もない。勝てないと思った。
衰弱した人は自決した。
下がってはいけないはずが 連隊長が撤退と言った。(武器の補充をして立てなさないとだめと判断した)
上は文句を言ったが 連隊長は 机上論をいうなと怒っていた。
兵隊などはこのままいたら全滅を感じて、連隊長のここで退いてまた攻撃に行けばいいと思ってることに同意していた。が 連隊長はその後任を解かれて日本へ。
そして 直ちに前線にと命じられたが 上層部の意見の対立で延期された。
アメリカ軍が準備整う前にというのに対し補給をして準備して総攻撃をというのでもめ、四か月後に総攻撃命がでたが アメリカ軍は兵力を三倍にしていた、
現地の様子がわからない上層にとって 自分たちは将棋の駒のようだと。
一か月の戦闘で半数もの兵士がなくなり 玉砕を命じられた。
しかし 歩兵団長が犬死するより撤退してゲリラ戦にしようと言った。
持久戦は飢えとの闘いになる。
ワニを撮ろうと行って鉄砲が発射できず ワニに食べられた人もいた。
連合軍が お昼食べませんかと 投降を呼びかけたりした。
野戦病院は名ばかりで みんな倒れているだけ。
蛆虫に傷口を食べてもらって治す。
斬り込みで行ったけど野ブタが出てきたので捕まえて食べた。その後爆弾を仕掛けたけど敵に囲まれてしまった。がなぜか退いたので 助かった。
戦争に負けたとわかった時は生きて帰れると思った。負けて悔しいというよりも安堵だった。

華北・ゲリラ討伐戦
日中戦争の最中占領した中国の地域の治安を維持するために投入された。
ゲリラは住民との区別がつかず 苦戦となった。
そして 毒ガス兵器「あか筒」を使用することになる。これは激しい吐き気を引き起こし、場合によっては死に至る事もある。
日中戦争当初は連勝だったが占領地が拡大するにしたがって占領地の支配が難しくなっていった。ので昭和13年から島根県松江市の歩兵隊を導入した。
最初は日本軍に従っていた農民たちも ゲリラが潜入して宣伝活動を行うにしたがって ゲリラに協力していくようになる。
住民の印象は良かったけど裏で何を考えているのやら。
大部隊で行くと逃げるので 小隊を残していると そこにゲリラが襲撃するのでかなりてこずった。少人数の警備部隊は 標的になった。
壕を住民に作らせた。その時給金は払わなかった。
日本軍が来るとわかると人民は食べ物など持って逃げてしまうので 食料があまり多く取れなかったりした。
村に入るとゲリラが住めないように 家など壊した。
スパイらしき人を見せしめに殺して首を置いて置く。日本軍が怖いと伝えるためだったが 暴力と恐怖で支配するのは 反発を招いただけだった。
ゲリラの捕虜などは殺した。
村の中心部に向かって一斉に突入したが人がいなかった。壕を掘っていて逃げたようだ。そして掃討作戦に 「あか筒」が使われた。
本来毒ガス兵器はジュネーブ議定書で使用を禁じていたが日本は批准しておらず 兵隊には護身用として持たされていた。
しかし 村の各地で使われて 出てきた人を捕まえた。まさかこれが死に至るガスとは考えていなかった。
その後日本軍が敗北を重ね始めたので華北のの治安維持を放棄して南方へ行かされた。
その時アメリが軍から武器などの援助を受けた中国軍からの猛攻撃を受けて壊滅状態になった。
兵器が壊れ補給も食料もなかった。夏に玉砕を覚悟したが 終戦で生き残った。

沖縄 終わりなき持久戦
この戦いで日本軍9割死亡、巻き込まれて死亡した住民9万4000人。
本土防衛の為に北海道の兵士が来た。はじめは 植物など初めて見るものが多く景色もきれいでびっくりしつつも 楽しんで住民とは お互いに色々違うねなどと話しをした。
1万5000人が招集され 1万800人が亡くなった。
戦闘開始の時 海には1200~1300は来ていたと思う。それを見て覚悟を決めた。
空は真っ黒になるくらいの戦闘機、そして焼夷弾がどんどん降ってきたが 日本の飛行機は全く見なかった。だから どうせ死ぬなら一気にと思った。
崖のくぼ地に潜んでいた48人は 最後には2人しか 残らなかった。
夜は斬り込みに行ったが 接近するのが大変だった。その際 沖縄出身の兵士は地理に詳しいというので何度も行かされた。
負傷兵でも生きる見込みがないと 表に捨てられた。
撤退の時は動けるものだけ連れて行ったが 動けないものは 自決をすすめ、できないものは殺した。
壕には兵隊だけ入れた。(前にも書かれてあったが 住民がいた場合は追い出した)
沖縄の方言をしゃべってるのは スパイとみなした。
沖縄に兵隊が来なきゃ 住民が巻き添えをくわなかったのではと 思った、

南太平洋 軍旗海没
南方に移動中 輸送船が沈没して軍旗が失われた。そしてニューギニアへ送られて 戦局が悪化し 現地解散を命じられて ばらばらに激戦地へ送り込まれた。
3000人いた兵士のうち生還できたのは わずか100人余りだった。
最初は中国での行軍。そしてベトナムそして南太平洋へ。戦局の関係で行き先が変わり 25日も航海していたので 衛生状態がわるいので デング熱が流行っていた。
ラバウルへ向かうと 潜水艦の魚雷が当たった。
少尉は軍旗を持って海に飛び込んだ。
銃など菊の御紋がついてるので持って泳げと言われたが 泳げないので捨てた。
大佐などはこの時失われた軍旗を気にして 自殺をこころみた。
軍旗をなくしたと聞いた時自分の連隊は決死隊になってもう帰れないと思った。
そして ニューギニアへ。上陸も困難だった。船が沈められたので1キロくらい泳がされた。途中で沈んだ仲間もいる。
そして解散させられたので 色々な部隊に配属されるけど 一番危険な仕事ばかりだった。

トラック諸島
日本軍の拠点が置かれたトラック諸島にアメリカ軍550機が飛んで来て日本軍は壊滅状態となる。
大きな被害は 兵士や物資を運んでいた輸送船だった。この時民間人2000人以上亡くなった。空襲直前連合艦隊の主力は密かに離れていた。
トラック島には商店街もあって賑わっていた。
暑くてもスコールがあって良かった。
戦局が悪化してきて 連合艦隊の威信にかけるので 挽回を狙っていた。
兵士たちは飛行機や艦隊もいるので安心していた。
が、荷物を運んでいた 輸送船は護衛艦がついたけど 荷をあげたら帰りはつかなかった。
集中攻撃の時兵士も含めてみんな逃げ惑った。
おぼれかけた時 人にズボンをしがみつかまれた。自分の命が危なくなってズボンのベルトを外してズボンを脱いだ。
漂流中は油にまみれた。 サメに食べられた人もいた。
最後内地への引き上げ船(女性や子供を中心に500人以上の民間人)も撃沈させられた。
生き残ったが 島で飢えに苦しめられた。

陸軍軍医の戦場
ニューギニアでは亀とか捕ったら軍医さんに持ってきた。軍医さんが元気だと我々も助かるからと ある意味において優遇されていた。
しかし亡くなっても きちんと弔う事ができなかった。後々まで悔やまれる。
インパールでは 軍医がいると命は助けてもらえると 心が安定するので士気が高まった。
野戦病院は患者がどんとん溜まってしまって治療もできず さらに患者がたまり野戦病院が機能不全となった。
怪我している兵士を後ろに送るには 4人(本当は8人)必要だけど 前線からそれだけの人数を割くことができないので 自分で 後方へ行けと言わざるを得ない状況だった。
ニューギニアでは 補給が全くなく なすすべもなかったので 話しを聞いてあげるだけだったが 兵士たちの遺言のような話を聞いてあげると 安らかに眠っていった。
軍医としては生き残らせたいけど 軍の上層部から 戦闘に参加させる。だから前線に行く前に死ぬ人も多かった。
戦線を広げたので 軍医が足りなくなった。
卒業後経験のないままにビルマに送られた。何もできなかったけど現地にいた衛生兵が教えてくれた。
中国では実施練習のため 捕虜を練習台にした。
沖縄では重症者を連れて移動していたが 上から働けないものは殺せと命令が下された。
捕虜にはなっていけないという事だから。
戦場で救う事のできなかった命の重さを、今も背負い続ける元軍医たち。一度は失いかけた医師としての誇りを、取り戻そうとする長い道のりである。

読めば読むだけ
心が 苦しくなります。
でも 多くの人にも 読んでもらいたい本です。


2 件のコメント:

  1. 読んでいるだけで悲しく辛くなります。何のための戦いか、大義はなんなのか?勝つための方策と
    後方支援は・・何もなし。あるのは精神論だけ・・バカみたいという事を当事者は考えないのか・・

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    1. クロさん いつもコメントありがとうございます。
      本当にそうなんですよ~~~
      一般の兵隊さんたちにとって 戦争なんてものは 全く なんでって 思いますよね。
      結局 偉い人たちの 思惑なんですよね。。。
      で 最後には 俺は関係ないみたいな顔しちゃって 裁判で 逃げきっちゃって その後 のうのうと暮らしていた人もいたし・・・・
      戦争って 本当にひどいものです。

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