NHK「戦争証言」プロジェクト 著
これが最後の巻になります。
多分まだまだ 証言はあるのでしょうけど
ここで 一区切りなのですね。
特攻 海軍航空隊
飛んでいく兵士を見たら飛行帽をかぶっていなくておかしいと
思っていたらはちまきの人は特攻と知った。
もう負けるのだろうと思っていたけど 目の前の戦いは勝たねばと
思った。
特攻の人たちはみんな明るかった。
アメリカの戦闘機は落としても落としてもすぐに出てくるけど 日本は一機やられたら
追加はなかった。敵の方が数が多かった。
勝つ見込みがないのに戦う。
「爆弾を持って死んでくれ」と言われ、戦争だからしようがないと思った。
目的は死ぬことにあると言われた。
飛行機乗りは空中戦で死ぬのは本望だけど戦いもしないで 突っ込むことなんて したくないと思ったけど やらねばならなかった。
ツルブ 撤退作戦
日本軍が島に上陸するときは アメリカから狙われて多くの兵士を失った。
波打ち際に陣地を作ったが 上から攻めてくるし 戦車も来た。武器はほとんどなかったが アメリカ軍の動きを止めなくてはならなかった。
野戦病院は名ばかりで何もなく 死に場所だった。
撤退の時は置いていった。
兵力の損耗が激しいので 玉砕覚悟で総攻撃をするという命令が出たが 中止になった。
が その中止命令が届かず命を失った人もいた。
空腹にも苦しめられて ジャングルの中では動くものはみんな捕まえて食べた。
船が迎えに来ると 信じて歩いて行ったが 待っても来なくて 仲間は死んでいった。
歩く途中仲間を連れて行ってあげたかったが 自分の体を支えるのがやっとだった。
帰国してから ずっと悔いている。
中国華北
中国では5000人余りで 四国と同じくらいの広さの治安を求められた。山の方はゲリラが出てきた。
住民か八路軍か区別がつきにくい状況。
日本兵は村人と仲良くしようと努力した。
討伐に行くとゲリラはすぐに逃げるので日本兵は滅多に死ななかったが 手薄な場所はゲリラに襲撃された。
二か月に渡る 八路軍の奇襲攻撃で日本は4000人ほど死傷者が出た。
人材も不足してきて 入隊からわずか数日で送り込まれた人は 訓練で 中国人を刺殺させることをやらされた。突くのが嫌というと 上官から殴られた。
八路軍にやられっぱなしになったので 徹底的に滅ぼす為に 燼滅(じんめつ)作戦を始めた。
もう住民を巻き添えにしないという事など考えられなくなった。食料を得るために畑などから略奪を行った。
村民を倉庫に押し込めて焼き殺した。この前に仲間が襲撃を受けたから その腹いせらしかったが むごいと思ったけど下の兵だから止めることもできなかった。
その後中国から沖縄へ行かされた。
中国でひどい事をしてきて、沖縄でひどい目にあって・・・・
戦争そのものが嫌いになった。 やってはいけないと思った。
駆逐艦部隊
駆逐艦とは 小ぶりな戦艦で魚雷を使って敵船を沈没させるのが主な役割だった。
しかし、本来なら 決戦の時に突入して 戦うのに 魚雷を使う事もなく 輸送作戦に使われて どんどん 沈められていった。
駆逐艦の兵隊は 駆逐艦という誇りがあって 捨て身で突っ込んでいくという気持ちがあった。が 輸送船にされてしまって 軍艦などには 菊の御紋がついているのに ついておらず 空から狙われて 輸送船として 沈んでいく駆逐艦は 消耗品だよねと 話していた。
駆逐艦は小さいので乗組員が200から300くらいだったので家庭的な感じで死ぬときは一緒と思っていた。
食料など命がけで送っても届かず、島からの引き上げの兵ががりがりで驚いた。
沈められるので ベテラン兵が減っていった。
駆逐艦が減ってるので休みなく働いた。
自分の命は後数年だろう。天皇のためというより 母親のいる国を守りたいという気持ちだった。
最後の決戦は 目の前で大和が沈んだ。船から逃げて泳いでいる人を助けたが 油で黒くまみれていた。そして 皆 他人を落としても助かろうとしていた。
フィリピン・ルソン島
太平洋の戦場では最も多い20万もの兵が命を落とした。
アメリカ軍が本土に来るのを防ぐ為に投入された。
自活自戦(援軍補給なし)の永久抗戦という命令。
初めて出航の時にはがきをもらった。何を書いていいのか悩んだが最後の手紙と思ってやっと書いた。
船が攻撃されて海は燃料に火がついて燃える。逃げるが泳げないものはダメで ブイに捕まるのも 争っていた。
救助は限られた時間だけだったので 助けられなかった人もいた。
戦力の差がありすぎた。こちらは三八式銃だが敵は自動小銃、一発撃つと10発すぐに撃ってくる。 そして アメリカはどんどん補給してくる。
物資を島に届けようとしても 上陸が困難なので 流すけど 半分も届かなかったのだと思う。
死守命令が出ていたけど 大隊長は命を大切にと言って自決などはすすめなかったので 生きていられた。
斬り込みは550人の内514人gが命を落とした。
成功したかどうかが問題で、帰ってきたかどうかは考えられていなかった。
地下壕にいた時は天井からの水滴でのどを潤した。
戦車への突入攻撃が中止になって 助かったと思ったけど 生きているのもつらい(飢えなど)ので 死んだ方がましかと思った。
戦地で遺骨など拾ってあげることができなくて 赤砂利(亡くなった場所の)を届けたが家族は髪の毛でも 欲しかったと 言った。
台湾先住民 ”高砂族”の戦争
反米意識があった台湾の人たちを日本軍として戦ってもらった。
素晴らしい活躍で勝利を収めた。
沢山捕虜を捕まえたけどマラリアにかかって衰弱していくので移送させるけど歩かないと斬る姿を見て残酷と思った。
高砂族と一緒に移動していると 方向がちゃんとわかっていて驚いた、
日本の教育が浸透していたので 皆天皇の為にって 働いてくれた。
終戦後台湾に戻ったら 中国の支配になっていて日本軍にかかっていたら捕まったりしたのでそのことは口にしなかった。
グアム島
アメリカが上陸してきたら 撃ってはだめ、おつり(反撃)がひどいと ずっと見ていたがこれでは勝てっこないと思った。
日本は一発必中だけどアメリカは量で対抗していたので ありったけ撃ち続けるので全然やり方が違っていた。
本土空襲の防護のため 防衛ラインを下げたにもかかわらず グアムは持久せよとの事だった。
負傷したら自決した。手当する人もいないしみんなの邪魔になるからと。
司令官は自決したけど 2500人の兵士たちは ばらばらに密林に逃げ込んだ。
置き去りにされた兵たちはそれぞれグループができていった。
一人でいるより生き延びられた。
死んでも降参はできなかった。なんでも食べれそうなものは食べた。
飢えで日本人同士が殺し合いをしてしまう。
投降を呼びかけても信用しなかった。
日本兵が投降を呼びかけても信用しないで逆に撃ってきた。
終戦後何年も密林にいた兵たちが帰国後苦しい日々を送った。
満州国軍
満州国軍には 日本の他様々な民族が合わさって構成されていた。
敵は八路軍などであるので 仲間の中国兵と戦ってもらう事になるのが悩みの一つだった。韓国の人も日本軍に入る事が特権を得られるという事で志願者がいた。
しかし多民族の集まりなので 扱いには苦労をした。
同じ部隊でもなんとなく遠慮がちになった。
基本的に日本語だったけど 中国語を学ぼうとした軍官もいた。
陣地について大正琴を弾いてくれた中国兵や モンゴル族の贅沢をしない思想などは良い刺激を受けた。
日本の陸軍の学校にいた中国人は最後には中国共産党の軍隊に入って抗日戦争に投じた。
日本人が来て中国の人たちをしいたげた気持ちがずっと残っていた。
だから日本軍に入って日本の軍事技術を学ぼうとした。
軍校では中国の人に対して親切な日本人もいた。
戦い方は日本の考えは他の国の人には理解されなかったので 戦力が弱まった。
その後反乱がおきていく。助かった上官などは普段から中国兵に対して良い態度をとっていた人だった。
謀反で殺されてしまったけど 日本では戦争扱いにされなかったので それの原因は戦争だと理解してもらうのが大変だった。
戦後軍にいた中国人は大変な目にあった。
しかし中国との絆があって 中国で虐げられている人の子弟を日本へ受け入れてあげようというような運動も起きた。
結局のところ この戦争は
最初に日本が自分の国土以外の場所を奪い始めた事から起こっている。
そして 仕返しされたら 徹底的に叩いていった。
その後 大きな国から やってきたことを やられたのである。
もし 最初に 他所の国に侵略などしなければ
もし 敗色が見えた時点で やめておけば
もし もし。。。。
過去を見ていくと 選択肢を 違う方向に選んでいれば
という事がありますが もう 過去は変えられません。
だから こういう愚かな 戦争というものをしてしまった事を
きちんと 反省して 二度としないように しなくては いけません。
たっぷりと 学ばせていただいた
7冊でした。
いつか NHKのホームページの 戦争証言を 見てみたいと思いました。
今はまだ 気力がありませんが・・・・・
日本が負けたのは、内部統制が摂れていなかった事と後方支援の補給路が疎かだった・・
返信削除に尽きますね。丁度マラソンで抜いたら抜き返される・・いかに抜いた後の立ち位置を維持するか・・
に掛かっていますからね。
クロさん いつもコメントありがとうございます。
削除そうなんですよね~~~ 結局アメリカをなめまくっていて 後方支援が気楽にできると思っていたのが大きな間違いでしたね。
マラソンで例えるなら 駅伝のように 本来なら 疲れるころ 交代で たすきが。。。となるが 交代が来ないので 先頭を走っていたけど どんどん 抜かれて行ってしまった~~~っていう感じでしょうね。。。